第14番 豊山 神楽院 長谷寺(ちょうこくじ) -高野山真言宗-
  所在地:徳島県鳴門市撫養町木津1037の1 電話:088-686-2450
  御本尊:十一面観世音菩薩
  御詠歌:いくちよも めぐみかわらぬ とよやまに
               ひかリかがやく のリのあさひは

撫養街道に面した高台に建物を連ねているのが長谷寺で、境内に上った参詣者はイチョウの大木にます目を見はります。昔、千石船をつないだという木です。

今から五百年前、このあたりが海であった戦国時代に、木津に住んでいた船戸左衛門尉次正は、主君の仇を報ぜんと日頃信仰していた大和の長谷寺(はせでら)に月詣りをし、不思議な御縁で、長谷観音と同じ木をもって作った観音像をいだたき、自分の屋敷に建てたのが当寺のはじまリで木津の入江の寺というので木津江(こずえ)寺とも称しました。時に文明十二年(二四八〇)でした。

こうした由緒から、三好氏の信仰は篤く、取立寺院として十二貫が寄進され末寺七つをもつ大寺院として栄えました。しかし、天正十年(一五八二)長曽我部元親の侵攻にあい焼失。この時代、長曽我部軍は木津城を攻め、豊臣秀吉が反撃し、木津城をめぐっての攻防で、隣接する当寺も大きな被害をうけました。

戦火もようやく治まり、蜂須賀入国と共に岡崎城主益田大膳は堂宇を再興し、金毘羅大権現を勧請。蜂須賀家政は慶長三年(一五九八)駅路寺に指定して、旅人の宿泊をさせるために十石を支給。三代忠英(ただてる)は山林を寄進、四代光隆は万治四年(一六六一)現在の観音堂を寄進しておリ、寺からは毎年祈札を城中におさめ、代々の城主は淡路巡行の帰途必ず寺に寄って観音・金毘羅に参詣・休息していました。

昔は観音堂は山の中腹に金毘羅大権現と並んでいましたが、明治維新の神仏分離のために境内地も二分し、現在地に移転したものです。

本堂は慶長六年(一六〇一)再建、鐘楼は安永五年(一七七六)再建、毘沙門堂は天保十三年(一八四二)創建、其他薬師堂・地蔵堂があり、境内には蕉門六世道阿の句碑があリ「かむこ鳥啼くやう月の山ざくら」の句が刻まれています。寺に伝わる駅路寺の文書二通は鳴門市文化財に指定、また当寺には「猫の恩返し」の物語も伝わっています。




■駐車場情報 大型バスは前の道路へ、小型・マイクロは境内へ

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