第9番 龍音山 見性寺(けんしょうじ) -臨済宗妙心寺派-
  所在地:徳島県板野郡藍住町勝端字東勝地179 電話:088-686-0327
  御本尊:釈迦如来像
  札所観世音:聖観世音菩薩
  御詠歌:よをすくふ あまねきかどに いるひとは
               なおゆくすえの たのもしきかな

県道わきの門柱を入ると、塀をめぐらした杜の中に、見性寺は深い由緒を宿して建っています。この寺を語るためには、阿波をおさめた小笠原・細川・三好の三代について説明しなくてはなりません。

鎌倉時代阿波守護職として入ってきた小笠原氏は、長房の時美馬郡岩倉に城を築き、宝治三年(一二四九)長之は父長房(宝珠院殿霜山義光大居士)菩提のため岩倉に宝珠寺を建立。其後小笠原氏は池田の大西城に移りました。

建武中興に入ると、足利尊氏は阿波を重視し一族の細川和氏を阿波守に任命、和氏は土成町秋月に城を構えて阿波を平定したため、小笠原氏もこれ に服従しました。細川成之(しげゆき)の代に秋月から勝瑞に城を移転、以来勝端は二二〇年間四国経営の要として栄え、世人は京の細川上屋形に対し阿波屋形と呼んでいました。

細川氏のもとで忍従していた小笠原氏(のちの三好氏)も次第に力を養い、永正年間三好長基は父長之((見性寺殿希雲道徹大居士)菩提のために、宝珠寺を岩倉から勝瑞に移して見性寺と改め、小笠原・三好氏の菩提所とし、その後三好家菩提のため龍音寺も創立しました。三好氏は細川氏をほろぼして大いに栄えましたが、天正十年(一五八二)土佐の長曽我部元親の軍に攻められ、勝瑞は焼野ヶ原となり、両寺もまたこれと運命を共にし、中興までの三八〇年の歴史も不明となりました。

延宝年間興源寺二世頑叟和尚が見性寺を中興、その弟子百非は梵鐘を造り、大川和尚は国内を遍歴して寄附を集め、勝瑞古城本丸跡へ寺を移転再建し、龍音を山号に、見性を寺号にしました。本尊釈迦如来と聖観音像は聖徳太子作と伝えられ、百非和尚が迎えたものです。

見性寺境内となっている勝瑞城跡は県指定史跡に、また室町時代作の絹本着色三好長基像一幅と、三好長輝像一幅は県指定有形文化財となっています。境内には小笠原・三好氏の墓もあり、栄華を誇り、阿波人の心意気を天下に知らしめたつわものどもの夢をしのぶことができます。なお、昔は見性寺・光勝院・丈六寺を阿波の三刹と呼んだものでありました。





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